歴史

 

 

城下町、備中高梁

備中高梁(びっちゅうたかはし)は、鎌倉時代から約750年間続いた城下町です。
吉備高原の山々に囲まれた町の中央を、かって高瀬舟(*1)が行き来した清流、高梁川が流れ、臥牛山山頂に残る日本一高い山城、備中松山城は、国の重要文化財に指定されています。
1240年秋庭氏が大松山に築いた後、天和3年(1683)に水谷勝宗3代が近世式城郭として修築、今でも三重櫓(天守閣)と二重隅櫓、が残っています。
城跡継ぎ不在となり、城の受け取りに来たのが播州赤穂の家老、大石内蔵助で、この7年後、忠臣蔵で有名な赤穂城開城と家臣の統制で大石内蔵助は成功しました。

文武宿「花屋」

こんな時代でも油屋旅館の先祖は、紺屋町で文武宿(*2)の花屋を寛文10年から営業していました。司馬遼太郎著「峠」と言う小説に出てくる、河井継之介が山田方谷を訪ね来高して泊まった宿で、日記「塵壺」に登場します。


山田方谷の名にちなむ方谷林を望む
	

山田方谷の掛け軸

飛脚から郵便局へ、そして再び旅館業へ

しかし、明治時代になり飛脚屋(*3)も同時 に営業していたので郵便局に転身、初代の郵便局長を務めていましたが、早くに夫婦が相次いで亡くなり、末娘が全てを手放し苦労した末に、明治43年に15代油屋利右衛門からこの油屋を引き継ぎ、再び旅館業を営みました。現在も当時の部屋3階(写真)が残っていますが、消防法により、宿泊はできなくなりました。

 
「三の山」

与謝野鉄幹/晶子

昭和4年伯備線が開通した年の秋、与謝野鉄幹、晶子夫妻が来高し、この3階に宿泊され、高梁川をながめ、その様子を詠んだうたや、次の日備中松山城、頼久寺等を散策した時のうたも残されています。

「男はつらいよ」

高梁の街は2度「男はつらいよ」の舞台となりました。
1. 第8作 寅次郎恋歌(昭和46年12月)
2. 第32作 口笛を吹く寅次郎(昭和58年12月)

山田洋次監督が、昔のお城の残っている全国12の城下町の中でここ高梁が一番落ち着いているからとおっしゃっています。 油屋を宿にしていただき、主役の渥美清さんも大変気にいってくださり「八つ墓村」の時にも宿泊されました。

その他の著名人

作家早乙女貢来高の際の常宿でもあり、そのほか、当宿には、
小説家獅子文六、
哲学者谷川徹三、
映画監督黒澤明
また、高梁出身の書家である 清水比庵、三渓兄弟も春秋の二度のふるさと帰りの宿でもありました。
(以上敬称略)

(注釈)
*1 高瀬舟-河川で貨客を輸送した底の浅い船。櫂(かい)か棹(さお)を使って動かした。古代から近世まで使われた小舟であったが、江戸時代に利根川水系に就航したものだけは非常に大型化した。
*2 文武(宿)-(古くは「ぶんぷ」とも)学問と武芸。
*3 飛脚(屋)-急を要する書類・金銀などの小貨物を配達する人夫。律令制の駅馬に発し、鎌倉時代は京都・鎌倉間に早馬があった。江戸時代には駅伝制が急速に発達、幕府公用の継ぎ飛脚、諸藩専用の大名飛脚、民間の町飛脚などがあった。1871年(明治4)郵便制度の成立とともに廃止された。
 
inserted by FC2 system